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【空の駅】余部鉄橋はなぜ誕生し、なぜ生まれ変わったのか?

最終更新: 2019年6月28日




「わー!高い!」



トンネルを抜けたその刹那、車内に嬌声が響く。



ここは余部橋梁。今ではコンクリート製の橋に架け換わっているが、かつては日本一の高さを誇る赤い鉄橋だった。その高さは約40mを超えており、なんとウルトラマンよりも背が高い





そんな余部鉄橋はなぜ誕生し、そして現在のコンクリート橋へと生まれ変わったのか。




この記事では、筆者が実際に現地で得た情報をもとに余部橋梁(余部鉄橋)の足跡を探っていく。






山陰本線とリアス式海岸

山陰本線は京都府京都駅が起点で山口県幡生駅が終点とする、山陰地方を東西に貫く鉄道路線だ。総延長は673.8 kmと2019年現在で日本一である。



京都府・兵庫県・鳥取県・島根県・山口県と1府5県を経由する山陰本線のうち、特に兵庫県但馬地域の区間は「山陰海岸」と呼ばれる国内有数のリアス式海岸に沿って線路が敷かれている。


山陰海岸の典型的な地形@香美町岡見公園

山陰本線で最も難工事を要したのはこの山陰海岸区間であった。



湾が複雑に入り組むリアス式海岸。険しい山と低く狭い海岸が幾重にも連なる。リアス式海岸地形に鉄道を通すにはトンネルを多用するほかないが、それでは建設期間と建設費用が膨大になってしまう。



山陰本線但馬区間(特に余部鉄橋の手前の「桃観峠」はかなり険しいことで知られる)でもトンネルの使用は避けられなかった。それでもなんとか建設費を抑制するために採られた方法はこれだ。



「できるだけ標高の高い区間を走行する」



リアス式海岸の場合、山と海岸の低地をゆるやかに隔てる「微高地」が存在しない。高いか低いか、である。そのうちのできるだけ高いほうを通ればトンネルを使用する区間を極限まで減らすことができる。



険しい桃観峠でも標高の高い地点を結ぶことでトンネルの建設を最小限に抑える計画が完成した。しかしその一方で別の問題が起こったのだ。




餘部の地形はリアス式海岸による山×海岸に加え、川がを形成している。



したがってできるだけ高いところを通ってきた線路は当初の予定通りなら餘部周辺で宙に浮いてしまう。




餘部を大きく迂回するか、巨大な橋を建設して渡るか。




いずれも難工事が予測されるなかで、選ばれたのは後者だった。



日露戦争直後、ここに余部鉄橋の誕生が運命づけられたのである。




突貫工事と問題点

余部鉄橋の建設は急ピッチで進められた。



工事期間は1909年12月から1912年1月とわずか2年強。長さ約300m以上、高さ約40m以上にも及ぶ巨大な鉄橋の建設期間としてはあまりに短い。それだけ多くの労働力が割かれたことがわかる。



大量の鉄材を大量の留め具で組み上げる……



突貫工事とはいえ最後に現場責任者が数万本に及ぶネジを一つ一つ確認したこともあり、その後架け替えまで橋自体が大きく破損するような事態は起こらなかった



「工事自体は大成功だった」と言えるだろう。




それでも、これだけ高い鉄橋なのだからいくつかの問題点はつきものである。




第一に落下物の問題があった。鉄橋を留めるネジなどの部品・鉄道車両の一部・乗客が投げ捨てたゴミ・鉄橋に積もった雪・そして自殺者。あらゆるモノが餘部の集落に落ちてくる。




次に問題だったのは高い橋梁ゆえ強い風に煽られれば脱線の恐れがあったところだ。余部鉄橋区間は強風による徐行運転や運休にしょっちゅう悩まされていた。




そして3つ目は「当初餘部集落に駅が設けられなかったこと」、これが集落にお住いの方々にとって最大の問題だった




望まれて出来た「空の駅」

余部鉄橋の完成によって鉄道が開通しても余部の方々が得られるメリットはそこまで大きくなかった。鉄橋はできたが駅がない。外界へ出るには「余部鉄橋を徒歩で渡り、隣の鎧駅まで歩く」のが最短ルートだったというのだから驚かざるを得ない。



鉄道用の、それもとんでもなく高い鉄橋を徒歩で往くのはあまりにも危険だ。列車が来れば逃げ場はほぼない。それゆえ、第二次大戦後にもなると駅を求める住民の声は次第に大きくなった。



餘部の集落から兵庫県知事へ。何度も寄せられた陳情はついに実を結ぶ。



1959年に「餘部駅」が鉄橋西側のたもとに開設された。建設にあたっては地元の方々が海岸から歩いて山の上まで石を運んだと言う。



かくして「駅がない」という最大の問題は解決された。だが、そのほかの問題は依然として残ったまま。重大な事故が起きるのも時間の問題だっただろう。




あまりにも凄惨な事故

「完全な人災事故だった‼」



餘部の住民によって記された手書きによる生々しい事故記録にはこう書き残されている。



1986年12月28日、当時の観測史上戦後2番目の規模を誇る強風が山陰海岸に押し寄せていたという。



この日、警告を無視して風速32~35m/sの風の中余部鉄橋を渡った列車地上の集落に転落し、鉄橋直下のカニ加工工場に勤めていた従業員5名乗務中の車掌1名の命が失われたのだ。




「どの住民も列車の落ちたのはわからなくて、風の音しか聞いていない」




事故当時の集落の様子について報告書は語る。




平時でも風によって波が高い。

それほどの風の中、人為的な判断ミスの末に風に煽られて列車は転落し、一瞬で命を奪った。




事故現場には観音像が建てられ、事故から30年以上たった今でも事故を知る人々が静かに冥福を祈っている。




天候とヒューマンエラーが主な原因とはいえ、この事故を機に大正時代に造られた余部鉄橋安全性には疑義が持たれるようになった。




事故以前の「風速25m/sで運行停止」から「風速20m/sで運行停止」へと基準値こそ厳しくなったものの、これはあくまでソフト面の対策であってハードである鉄橋自体は何も変わっていない。



加えて、厳しくなった基準値によってこれ以降列車を時間通り運転することすらままならなくなることに



そもそも海沿いに金属製の橋である。海からの塩分を含む風によって劣化は進んでおり、維持費にも相当お金がかかってしまう。



それゆえ、徐々に「余部鉄橋の架け替え」が注目され始めた。




生まれ変わった「余部橋梁」

新橋梁の建設開始は2007年3月、完成及び開通は2010年8月。



凄惨な事故から20年以上の年月が経って、ついに旧余部鉄橋はその役目を終えた



新余部橋梁はコンクリートで造られ、線路には透明防風柵を設置し、強風対策および耐久性にも万全を期した。風速30m/sであれば運行可能とされたため、定時運行も十分に可能



旧余部鉄橋の大部分は新橋梁の建設を機に解体された。しかし、一部は「空の駅」としてそのまま観光客向けの展望施設になっている。



橋の真下には新たに「道の駅」もオープンし、「空の駅」「道の駅」ともに連日多くの観光客でにぎわう。




「高いね!お母さん!」


「そうね、高いわね」



橋の上の列車から見る車窓と赤い鉄橋は、その一部を生まれ変わらせつつも、今でも餘部の街のシンボルであり続けているのだ。




余部橋梁の今後は?

もちろん明るい話題だけではない。



余部橋梁を含む山陰本線但馬区間の観光客以外の需要は年々減りつつある。また、観光客と言ってもバスで訪れる人ばかりで鉄道の収入にはなっていない。



あれだけ望まれて開業した余部橋梁と餘部駅。果たしてそれらは未来永劫残り続けるだろうか。




餘部のシンボルの存続は我々にかかっている。




鉄道をより長い区間利用し、餘部の道の駅でお土産を購入する。感動を与えてくれる地域に対してお金で還元する。




今のうちに餘部を訪れ、お金を残し、発信していくことが餘部の未来につながるだろうと僕は考えている。



(コフンねこ)

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