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【伊達政宗の居城?】国指定史跡・館山城の城主とその役割を探る―②

最終更新: 2019年7月2日

前回は⇒こちら


米沢市館山城に実際に行ってみて得ることができた新たな知見は主に2つ。



①桝形虎口は伊達時代ではなく上杉時代に造られたモノである

②腰曲輪は東・曲輪Ⅲ物見台は主に南東を見るための監視用設備で、各々竪堀状遺構が伴っている(ガチの新発見っぽい)



まさかここから新たな謎が浮上!?



1.館山城の現地で浮かんだ新たな謎……!

ここで改めて館山城の立地を確認してみましょう。



館山城は米沢城の西北西方向、米沢盆地の西端で鬼面川(おものがわ)と大樽川・会津街道と小野川街道という二つの河川・街道の結節点にそびえる小高い丘(河岸段丘)に所在する。



河川や街道の結節点―この情報だけ見れば、会津方面から侵入してくる敵に対する備えまたは会津方面へ侵略する際のベースキャンプとして使われたことだけを想像しがちだと思う。



しかしあえて「半分正解で半分は間違い!」と主張させてください。



問題は街道と館山城の位置関係にあるんですよ。



当時米沢盆地(特に現在の米沢市域)に侵入してくる経路は主に3つ存在した。



会津街道・白布街道・板谷峠―伊達時代に造られた200以上の城郭は、これらの街道やその支道沿いに立地している。



中でも会津街道は館山城のすぐ北側を通ってます。



当然館山城も街道を睨む城郭であるのは間違いないのだけれど、先述の②で指摘した通り、城内の監視用設備である物見台が会津街道の通る北側じゃなくて米沢城を含む南西側城下町を向いているんだよね。



しかも、①で述べたように上杉氏以前の館山城には街道側の防御施設である堅牢な桝形虎口は存在していなかった。



東麓で発見されている居館遺跡の様子からも、「伊達時代の館山城は南東側が大手(表玄関)」とされている。



しかも北側は搦手(からめて)、すなわち逃げ道として考えられていたらしい。



会津街道を守るだけなら新田氏および伊達氏は北側の備えを強化するべきで、南東側、つまり米沢城の方向を表玄関とした城づくりをする必要なんかないはずだ。



ここまで見てきた通り、伊達氏は意外にも街道ではなく米沢城の方向を意識した城づくりを行っていたと言えそうなんだけど、これはいったいどうして?



ではその後なぜ上杉氏の時代になってこれまで意識していた方向とは真逆の北側に巨大桝形虎口を建設したのだろうか?



そしてなぜ「あえて壊す」必要があったのか?



2.仮説「時代によって役割が変化した?」

改めて館山城の謎をまとめると……



A:なぜ伊達時代には会津街道ではなく米沢城の方角を意識した城づくりを行ったのか?

B:なぜ上杉氏の時代になって今度は会津街道側に堅牢な桝形虎口を建設した?

C:なぜその桝形虎口はある時期に突然破却されたのか?



これらの謎の解決のためにここで仮説を提唱しましょう。



ズバリ「館山城の役割・目的は時代によって変化してきた説」でございます。



ここからは考察を述べていくことになるので、さしあたって現在わかっている館山城の歴史を簡単におさらいしておくね。


詳しくは⇒前回記事


  1. 館山城は伊達が侵略する以前から新田氏という土豪の居城であった

  2. 新田氏は伊達家に仕えるようになってもなお館山城を居城とし続けた

  3. 元亀元年、新田義直が伊達輝宗(政宗の父)に対する反乱を起こす

  4. 反乱鎮圧以降、伊達輝宗が隠居所として館山城およびその付近を再整備

  5. 天正15年・同18年に伊達政宗が普請(整備)を改めて実施

  6. 江戸時代に入って上杉氏が米沢の領主になり、巨大桝形虎口を整備した(発掘により判明)

  7. 館山城が完全に破却される


新田氏というのは米沢の領主である伊達家の家臣にあたる。



したがって新田氏が館山城を居城としていたころも伊達時代であることは変わらないことになるが、天正年間における伊達政宗親子の再整備を重視して1~4を「伊達時代Ⅰ」、5を「伊達時代Ⅱ」、6を「上杉時代Ⅰ」、破却された7を「上杉時代Ⅱ」とする。



※この後の文章では「伊達時代Ⅱの館山城」……などといった表現が登場します。



仮説の骨子は「伊達時代Ⅱ」「上杉時代Ⅰ」でそれぞれ館山城に与えられた役割が違うんじゃないか?ってことです。



では早速A→Cの順番で謎を一つ一つ解き明かしていきましょう。



A:なぜ伊達時代には会津街道ではなく米沢城の方角を意識した城づくりを行ったのか?

正確に言うとこれは伊達時代Ⅱ、つまり天正15年と天正18年の伊達政宗による館山城再整備の話になります。



この時代の政宗周辺の動きをおさらい。



伊達時代Ⅱのころ、政宗は会津の蘆名氏と争っていた。最終的に決着がついたのは米沢から白布街道を抜けた先の猪苗代湖近辺で行われた「摺上原の戦い(天正17年)」で、勝利した政宗は会津を領有することになる。


一連の騒動の中で争点になっていたのは「猪苗代城」。政宗は会津を攻めるにあたって会津街道ではなく白布街道を重視していたと言える。


残念なことに政宗の会津領有はそう長く続かなかった。豊臣秀吉がにらみを利かせてきたからだ。


天正15年段階で秀吉が発布していた「惣無事令」は大名間の争いを禁じるものであり、政宗が蘆名氏を滅ぼして会津を領有した行動は当然問題視されてしまう。


天正18年、秀吉は最後まで自分に従わなかった北条氏を20万の大軍で総攻撃する。この「小田原攻め」は秀吉の令に従わなかった政宗にとって『次はお前だ!』というメッセージに感じられたに違いない。


結局政宗は米沢から小田原に参戦する。「白装束を着て馳せ参じた」というエピソードはあまりにも有名。



話を館山城に戻しましょう。



政宗が館山城の整備を行ったのは、蘆名氏と争っていた天正15年と会津領有後秀吉から睨まれていた天正18年。



蘆名軍や豊臣軍がもし米沢に攻撃をしかけるとして、どのルートからやってくるでしょうか。



米沢を攻めるとしたら伊達家の居城:米沢城に真っ先に向かうはずだ。



会津街道から攻めてきた場合、米沢城に向かう敵軍を館山でせき止めることは可能。しかし、道は会津街道だけじゃない。



白布街道や板谷街道から敵が米沢に攻めてきたら……つまり、敵は南と東から米沢城を攻め込むことになる。



猪苗代を巡って伊達と争っていた蘆名軍は猪苗代から北上して白布街道を通ってくるだろうし、豊臣軍は小田原からの最短ルートである板谷街道を通ってくる可能性が高かっただろう。



そもそも平地に建てられた米沢城は防御面でめちゃくちゃ弱いので、直接攻撃を仕掛けられてしまったら……?



米沢城のある南東方向を監視する腰曲輪と物見台。米沢城が直接攻められる公算が高かったからこそ、政宗はそのような監視設備を設けたのではないだろうか。



米沢城の方向である南東が大手(表玄関)となっているのは、米沢城が猛攻に遭った際に逃げていくのに都合が良いからではないだろうか。



会津街道を守る要塞であると同時に、会津街道以外の方向から米沢城を攻められた際の「最後の砦」でもある館山城。



伊達時代Ⅱの館山城に与えられた役割は「最後の砦」である説、これが疑問Aに対する僕なりの答えです!




B:なぜ上杉氏の時代になって今度は会津街道側に堅牢な桝形虎口を建設した?

伊達時代Ⅱの館山城は、米沢城や米沢の街が蘆名軍または豊臣軍にとって南東から攻められることを見越して南東側を強く意識した城だった。



会津街道を守るというよりも、米沢城が落とされた際の最後の砦として機能するようにした―というのが僕なりの見解。



それは北側に搦手(逃げ道)があったことからも明らかだと思う。



ではなぜ上杉時代の館山城は北側の会津街道を意識した造りに生まれ変わったのだろうか?



上杉が会津から米沢に移封となったのは関ヶ原の戦いの後のこと。上杉家は関が原で言うと西軍、徳川とは敵対関係だったということになる。



したがって上杉家は、時代の覇者である徳川家に「目をつけられていた」んだよね。


目をつけられていた上杉景勝&直江兼続。

関が原が終わった後も豊臣家はまだ存在していて、「いつか徳川vs豊臣の最終決戦が行われるだろう」と皆が思っていた時代。



徳川に目をつけられているということは、「もしかしたら徳川が米沢を攻めてくる可能性があるかも……。」ということになってしまう。



そこで、米沢移封当時の当主・上杉景勝と直江兼続の主従は『戦える街』を目指してまちづくりを実施したんだ。



板谷街道沿いの万世地区と白布街道沿いの南原地区に半農半士の兵士を住まわせたり、米沢城の東側に緊急時にはお城として使える寺院をたくさん配置したり……。



すごいですよね、この徹底ぶり。



上杉時代Ⅰの館山城は、こうした『戦えるまちづくり』の一環で整備されたものと考えられるのです。



板谷街道を抜けた先の福島市近辺(信夫郡)は当時まだ上杉家のモノだったから、もし徳川勢が南からやってきてもある程度福島でストップできる。



けれども会津街道を抜けた先にいるのは関が原で東軍についた蒲生氏。徳川の味方。



直接攻め込まれるとしたら、、、敵は会津街道からやってくる。



彼らを迎え撃つための改めて北側を整備しなおした……これが上杉時代Ⅰの館山城整備の骨子ではないでしょうか。



伊達時代Ⅱには米沢城がやられた後の最後の砦としての側面が強かった一方で、そういった役割の設備(物見台)は残しつつ新たに北側の備えを桝形虎口で強化する。



実はこの点に関して、「伊達時代Ⅱから上杉時代Ⅰにかけて館山城の本丸が東側の曲輪Ⅰに移動した」という見解も出されているのですが、そうなるととんでもない変化ってことですよね。



上杉時代Ⅰの館山城の役割は「会津街道を守る最強の大要塞」に大変化した―というのが僕の疑問Bに対する答えです!




C:なぜその桝形虎口はある時期に突然破却されたのか?

すごく簡単に言うと、徳川にバレそうになったからっぽい。



上杉家の忠実な家臣で米沢の街の整備を行った直江兼続は、部下に対してこんな指示をしていたことが近年発覚しました。



「館山之儀一切無用之事」



多様な解釈ができる文章だけれども、おそらくは「館山城なんてなかったことにして!」という指示だろう。つまり「破却せよ」と。


実は現在見れる図のような館山城は上杉氏のモノだった!?

西軍についたけれどもお家取り潰しにならずに済んだのは家康や秀忠が寛大だったからであって、彼らが「上杉はなんかまだ敵対意識あるっぽいぞ」なんて知ってしまったらもう終わり。



バレるまえにつぶしてしまえ!という魂胆だったんだろうね。その証拠に、発掘調査では「上杉氏はまだ整備中にぶっ壊したらしい」ということが発覚してるもん。



上杉時代Ⅰに会津街道を守る最強の大要塞に変えられた館山城が突然破却された理由、それは「徳川さん怖い怖い」だった―これが僕の疑問Cに対する答え!





まとめ:館山城の謎を探ってわかったこと

一時期は「伊達政宗の真の居城ではないか?」と言われていた米沢市館山城。



実際に丹念な調査をしていくと、最初は新田氏の居城(元亀年間)で、次に伊達氏の支城(天正年間)となり、最後は上杉氏が再整備を行った(慶長・元和年間)ということが発覚。



立地的に「会津街道を守る要塞」でも「米沢城落城の際の最後の砦(詰めの城)」としても機能する館山城。



伊達氏は「南東方向から敵がやってきた際の最後の砦」、上杉氏は「徳川方が会津からやってきた際の迎撃要塞」と、時代の潮流や築城主によってその役割が変化していくこともわかった。



最後は徳川にバレそうになって破却―今回の考察は以上の通りです。



こうしてみると、館山城は長きにわたってずいぶん機能的に用いられた城郭だったんだな~って。



みなさんもぜひ近所のお城に行って、その役割や城主の考えに思いを馳せてはいかがでしょうか?




参考文献

米沢市教育委員会 2015 『米沢市埋蔵文化財調査報告書107:舘山城跡 発掘調査報告書』米沢市教育委員会


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